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天命に従い、人事を尽くす

転載:天命に従い人事を尽くす。生田家代々伝わる企業精神

添付文章:中国ビジネス管理雑誌『ファミリービジネス』、2016年8刊
作者:少杰

生田家に受け継がれた企業精神
天命に従い人事を尽くす


天命が決まっている以上、私は最大の努力を尽くし、天が私に与えた天命を最善にやり尽くさなければならない。


 【写真】生田産機工業創業者、生田家家族族写真


「富は三代を持たないという伝えがあるように、3代目である私の圧力はやはり大きい。」ルームフレグランスが置かれた広々として明るい、質素且つシンプルな事務室で、筆者の質問に対し、生田産機工業株式会社の3代目社長生田泰宏氏(1961年~)は、少し考え込むと話しはじめた。

 生田産機工業(IKUTA)株式会社は、1919年に創立した。資本金は2000万円であり、本拠地の従業員数は70人にのぼり、主に銅と銅合金などの金属生産設備及び各種産業の自動化機械の設計製造と販売に従事し、主力製品の両面々切削ラインを含み、CNCカッター研削盤、めっきライン、超硬ミーリングカッター等、中でも両面々切削ラインの世界マーケットでの業績は三菱などの大手企業と等しく、広い市場シェアを占有している。中小企業であるにもかかわらず、高い志により、早くも2002年に生田産機工業は世界に目を向け、全世界に戦略構造を展開した。今後発展となるエネルギーから市場の未来まで考え、「世界の工場」と呼ばれる中国に進出し、後に中国中国江蘇省の蘇州市に「生田(蘇州)精密機械有限公司」を設立し、「州伊易有限公司」と「生和(蘇州)技研有限公司」、さらには長年にわたり創りあげた強力な製品と技術力によって、201510月にはトルコの首都イスタンブルへ正式に進出し「IKUTA MAKINE A.S.」を設立し、伝統的な機会製造業の巨大マーケットのヨーロッパ市場に大々的に進出した。生田泰宏は1961年に生まれ、今年55歳の、生田産機工業の3代社長である。そして、この方の冷静な戦略思考と大胆な戦略精神によってくじけることなく、この京都伏見区の中小産業機械製造の町工場をグローバルな世界舞台に立たせた。

 このように日本の京都で、まもなく創業100周年を迎える中小企業が、自社の良質な製品と豊富な技術力をもって世界の産業機械の舞台で活躍している。彼らはどのようにやり遂げたのか。2016628日、筆者は生田産機工業の本社が位置する京都市伏見区に行き、3代目社長の生田泰宏氏に独占インタビューを行った。
 

逆境の中で戦後再生を果たす

 1901年、現在の3代目代表取締役である生田泰宏の祖父生田捨吉(1901-1974年)は生田家7人の兄弟の中、長男として福井県東郷の農家で生まれた。家系を支えるため、捨吉は小学校を卒業すると同時に、現地の機会加工製造会社に弟子入りをした。10年近くの努力の後、聡明且つ凄腕だった生田捨吉は、熟練された多くの機会加工方面の技術を持ち、節約を続け資金を貯めた。そして1919年、19歳の捨吉は単身で故郷を離れ、京都の伏見市で「生田鉄工所」という小さな町工場を設立し、それが生田産機工業の創立となった。設立当初、生田鉄工所の主要業務は産業機会の製造業であった。理由として、京都伏見は日本酒の著名な産地であり、大小企業を含め多くの清酒会社があったため、清酒製造工場の製造と維持、清酒製造所が必要としている機械の改善と設備を行ったのが、生田鉄工所の主要の仕事であった。また、捨吉は長男として、故郷に残した親と兄弟をずっと想い続けた。数年が経ち、1920年代に入いると生田鉄工所の経営が安定し、捨吉は一家を京都に呼び、家族の生活を安定させた。

 しかし、1930年代に入ると日本の軍国政治により戦争に突入した。これにより中国を含め、アジアの隣国にも災難をもたらしただけでなく、日本国内の国民の生活にも打撃を与え、苦しかったことは言うまでもない。戦争に突入するため、日本軍国政府はすべての戦略物資となるものに対して厳格に戦時統制を行った。捨吉の生田鉄工所もこれを免れることができず、1935年に日本軍国政府は強制的に生田鉄工所の組織を改組し、会社名を「京阪機工株式会社」に変え、主要業務を日本軍隊の軍需油送ポンプの製造とした。

 たった一人で発展させた会社が軍治統制されたのだから、捨吉の不満は少なくなかったが、理不尽な軍国政府下ではどうすることもできなく、ただ黙々と耐え、内心では絶えずこの罪悪な戦争が早く終るよう祈っていた。やがて10年後の1945年、日本は敗戦し無条件降伏を宣告した。終戦に伴い京阪機工株式会社も解散を宣告し、10年の苦しい忍耐の末、捨吉を含め生田家は再び所有権を取り戻し、企業名も以前の生田鉄工所に戻した。しかし、戦後の日本社会の環境の変化により、生田鉄工所はさらなる危機を迎えた。

 第二次世界大戦後、敗戦国として、日本はアメリカの率いる連合国軍の占領統治を受けた。欧米のライフスタイルと生活観念が迅速に染み込み、日本の伝統的な生活は打撃を受け、人々はビールやワインを飲みはじめ、特に若者が日本酒から離れていき、日本酒を飲むことは古臭いとさえ思うようになった。清酒マーケットは急速に縮小していくと、多くの清酒の中小企業が倒産していた。そして、これまでに清酒企業を相手に生計を建てていた生田鉄工所も次第に危機の到来を感じていた。

 苦境を脱するため、捨吉とその長男生田宗宏(19301999年、生田産機工業2代目代表取締役)、そして社員とともに新しい事業へ方向転換することを考え、さまざまな試みを行った。そして1950年、生田鉄工所は伸銅設備機械の製造に着手し、さらに同年、銅水洗粉砕選別機を開発し、実用新案特許を取得した。社員との努力により、1953年生田鉄工所は事業転換に成功し、正式に会社名を「生田産機工業株式会社」に変更し、捨吉は会社社長に就任した。その後、長年の豊富な経験と努力により、生田産機工業の技術員らは捨吉と宗宏の親子が率いる中で、着々と技術の研究開発を進めていた。1995年、生田産機工業は日本発の黄銅板面削装置の開発に成功し、日本の伸銅製品の加工製造業に飛躍的な品質向上に貢献を成し遂げた。1960年、生田産機工業は黄銅棒電流焼鈍矯正機の開発に成功し、実用新案特許を取得した。さらに1970年、生田産機工業は両面々切削装置を開発し、大々的に面削装置の効率を上げ、コストを下げることに成功した。

 1974年、生田鉄鋼所とその後の生田産機工業に生涯を注いた創業者生田捨吉が病気により逝去した。享年75歳であった。初代社長の生田捨吉の逝去後、息子である長男宗宏が父の跡を継ぎ、生田産機工業の2代目社長となった。


突然の社長交代

生田産機工業2代目社長生田宗宏は、現社長の生田泰宏の父親であり、第二次世界大戦前の1930年に生まれた。前記で述べたように、宗宏が6歳のとき、日本軍国政府が生田家の経営していた生田鉄工所を統制した。そのため宗宏の幼少期も火花が飛び散る戦時中であった。

第二時世界大戦の終戦後、生田鉄工所を建て直すため、そして家族を養うため、15歳の宗宏は中学校を卒業すると家業を手伝い、父の捨吉とともに生田鉄工所の建直しを行った。1974年、捨吉の逝去後2代目社長に就任してから、捨吉と同様に事業革新に着手した。1978年、生田産機工業の両面々切削装置と自動溶接装置が韓国への輸出に成功し、生田産機工業の海外進出の第一歩となった。その後、生田産機工業の優れた機械製品は香港、台湾、イランなど国外市場へ次々と進出し、1990年代にヨーロッパ市場に進出した。1985年、生田産機工業のこれまでの両面々切削装置の基礎が革新した。1500mmの大型両面々切削装置により、大いに切削作業の効率を上げた。さらに、1991年に生田産機工業はアルカリ脱脂洗浄ラインの開発に成功し、そして、1995年はWindowsNTをベースにしたCNCカッター研削盤の開発に成功した。

社員数は100人に達しない少人数の中小企業ではあるが、生田産機工業の創造力と技術力は人を驚かせるものである。これに対し、筆者のインタビューで、3代目社長生田泰宏は以下のように述べている。

「父は学歴上では中卒でしかなかったが、15歳から祖父と一緒に工場で働いたこと、特にあの第二次世界大戦の苦難の生活を送ったことで、才知を働かせ、方法を考えつくし危機を脱出した。このように父は創造力の重要性を学んだと言える。これは父だけでなく、今の会社も同じであり、ほとんどの従業員が、産業機械の職人あるこの小企業は職人集団であるとも言える。第一に、父の弟である私の叔父は徹底した技術員であり、職人であった。叔父は父より4つ年下で、出生時は家業が傾いたが、第二次世界大戦後大学を卒業することができ、工業学科で技術システムを学ぶことができた。このようにして、大学を卒業後家業に入り、技術面と製品研究開発の仕事を叔父が担当したもちろん、当時ほかの職人も、学歴で言うと少し低いかもしれないが、父とともに歩み、さらには祖父の世代からともに歩んできたのだから、実践経験上では一流の達人である。生田泰宏社長の話にはうそがなかった。現在の生田産機工業の現場には、かつて1代目と2代目社長と共に働いた職人がいまだにいる。一番年配の方は74歳のご高齢であり、製造の第一線上で活躍し、主な仕事を弟子の育成として、生涯心血して手にした技術のすべてを次の世代に教えている。

ところが生田産機工業の創業80周年となる1999年、64日のこの日、生田産機工業の2代目社長生田宗宏は病気により突然逝去した。享年69歳であった。身体はいつも健康であった2代目社長の突然の逝去により、生田家と生田産機工業に衝撃を与えた。家では大黒柱が必要であり、会社では社長がいなければならない。生田産機工業を正常な運営に戻すため、2代目社長生田宗宏の長男である生田泰宏が父を亡くした痛みを伴いながらも、3代目社長となった。

このとき、泰宏が3代目社長となったのだが、2代目から3代目への受け継ぎが完璧にできたとは言えなかった。理由としては、亡き2代目社長生田宗宏の弟である泰宏の叔父が、生田産機工業の株を30%以上所有していたからであった。「叔父は当時会社を退職し、退職時は父から多くの退職金をいただいたにもかかわらず、多くの会社の株を所有していた。この問題を解決しない限り、会社の受け継ぎができたとは言えない。」しかし、いざ叔父に会うと、頭があがらなかった。最終的にこの問題を解決したのは、泰宏の母であった。「私の母は事理がよくわかる人であった。はっきりと覚えているが、父が亡くなった年の19991230日の夜、母は大金を用意し、私を呼び叔父の自宅へ向かった。あいさつを終えるとすぐに、母は単刀直入に話を持ち出し、お金を叔父に渡し、亡くなった前社長に免じてすべての株を私に引き渡すよう話した。おそらく叔父も亡くなった父のことを想っていたであろう。長く考えず、母の要求を引き受けた」ここまで言うと、昨年(2015年)癌という病魔にも勝ったこの男、生田泰宏が涙をこらえ切れなかった。なぜなら2000110日、泰宏の母は息子の株の難題を解決し、夫の「家業の伝承を完成させる」という遺言を果たしてすぐに、突然病により逝去した。泰宏は落ち着きを取り戻すと、筆者に対して母について述べた。「母は本当にすごい人であった。彼女は多くの苦労を経験した。私たち家族全員の面倒をみながら、工場の父の手伝いも行い、さらには亡くなる直前まで私のために難題を解決し、使命を果たした。」

3代目社長の挑戦
 
 生田泰宏は、1961年に生田家の4人兄弟中、長男として京都で生まれた。日本の大学を卒業後、アメリカのテキサス州のセントトーマス大学の留学を経験し、経営学科を卒業した。アメリカから帰国後、はじめに同じ製造企業である京都の株式会社イシダに入社した。1989年、泰宏は家業に入ると正式に生田産機工業に入社した。1999年、父が突然逝去すると準備も整っていない中で、慌しく家業を継ぎ、3代目社長となった。しかし、引き継いた当時は決して楽ではなかった。「父の突然の他界による衝撃は言うまでもなく、もっとも大変だったことは、会社の従業員が心から私を信じていないと感じられたし、従業員の心もばらばらであり、みな不安を抱えていた。実際このことは、簡単に理解できることである。1989年に会社に入社し、10年しか経っていなく、年は38歳になったが、若いとも言えない。第一に特別な能力があるわけでもなく、第二に会社に貢献したわけでもないのに、このように社長になったのだから、だれでも信じられないだろう。もう一つは、実際当時の経営状況が悪く、15000万円の赤字を出したことである。
 
 会社内の散乱した心と向き合いながら、帳簿上の巨額の赤字とも向き合い、泰宏は当時の状況を分析し、死ぬ覚悟で決心した。「富は三代で終わると言われているが、私はちょうど生田産機工業の3代目である。だから、生田産機工業の今後も私次第だと思う。賭けにでても最後、何もしなくても最後なら、気持ちよく賭けにでて気持ちよく負けたい。」このような心掛けで駆け出した泰宏は、再出発を果たした。」

 「まず、当時感じたことは、必ず会社の両面々切削装置の研究開発が必要であり、装置に必要なカッターが会社の貢献につながると感じた。でなければ、他社の売り上げにしかならず、わが社は受動的状況にずっと置かれることになる」。実際3代目社生田泰宏が社長に就任する前、生田産機工業の主力産業だった両面々切削装置も、部品一つひとつすべてが生田産機工業のものではなく、中でも特に重要なカッターの部分が当時の生田産機工業では生産できる能力がなかった。

 「会社が両面々切削装置を販売するたび、私たちはまず三菱マテリアルなどの大手企業からカッターを買出し、自社の装置の上に取り付けてから、顧客に販売しなければならなかった。また、実際機械の本体は問題ないが、カッターは定期的な手入れと交換が必要であった。そのため、カッター部分の利潤もかなりのものである。さらに、顧客が最初にわが社から装置を購入したとき、カッター部分が他社製だと知ると、わが社を通らず直接そちらの会社と連携をとって購入してしまうし、大手企業もわが社を相手にしようとしなかったため、私も大手企業と測り知れないほどの喧嘩をしてきた。しかし他に方法もなく、自社では生産できないため、彼らに頼ってしまう。だからこそ何があっても自社製のカッターを開発したいと思った。」


【写真】 1999年父の突然の逝去により、生田泰宏は準備の整っていない中で急遽後継ぎをし、生田産機工業の3代目社長となった。社長を引き継いだ泰宏は、死ぬ覚悟で望むと決心した。

 開発目標はとても明確であったが、依然として会社内の心は散乱していた。駆け出し始めた泰宏に父同様の求心力を備えていたわけでもなく、ほとんどの従業員は「若い3代目が暴走し始めた。」とさえ思っていた。では、この開発の難題をどのように攻略したのか。筆者の疑問に生田社長は、コーヒーを一口いただくと話しはじめた。「確かに当時は難しく、みなの心が散乱していて、私が何を話しても誰も耳を傾けなかった。しかし私の二人の弟が会社にいたおかげで、彼らに私の考えと苦悩を話すと、彼らは非常に理解してくれ、最善を尽くして私を助けてくれた。彼らの助けと後押しにより、従業員らは次第に私が望むカッターの開発に取り組むようになった。努力は裏切らないというように、一年以上の時間をかけ、生田産機工業独自のカッターの開発に成功した。

 自社製の両面々切削装置に自社製のカッターを組み合わせたことにより、生田産機工業の両面々切削装置はたちまち市場で売れ行きの良い製品となった。さらに、カッターが会社にもたらした効果と利益が次第に現れてきた。こうして生田泰宏新社長は初戦を飾った。生田産機工業の従業員もまた、この40歳前後しかたっていない社長を「なかなかやる」と認めるようになった。

 しかし、初戦を飾った泰宏は、現状に満足することはなかった。彼はまたひとつ命令を降し、第2の「暴走」を歩き出し、中国市場を開拓しようとした。新社長に今やっとほんの少しの好感をもつようになった従業員からすれば、この「無知愚昧」な社長命令がまたも彼らを仰天させているようだった。何故なら2000年のはじめ、2001年にすでに中国がWTOに加盟したとは言え、市場の環境は整っているわけでもなく、多くの法律や政策も未完成であった。このように多くの変数のある市場で、トヨタや松下電気のような大手企業でさえ、きわめて慎重に動いたとしてもハイリスクを背負っているのだから、無名の京都伏見の小さな町工場だとしたら言うまでもなく、実際多くの日本の中小企業がすでに中国進出により倒産し犠牲となっていた。このような厳しい現実の中で、日本の中小企業の多くは、中国進出は無謀のように感じていた。そのため、社長命令がでるとすぐに会社内全体が猛烈な反対をした。

 しかし泰宏は猛烈な反対が出たからといって自分の考えを放置したわけではなく、その間逆で、彼の闘志が高まり、「これまでの新製品の開発に関してもみなよく思わなかったが、結果としては成功したのではないか。今回の中国進出も無謀だが、日本の市場規模は有限なのだから、今は設備とカッターが売り上げを出したとしても、他の企業がこれらの設備とカッターを生産したときは、わが社は競争力を失う。そのときになって危機を対応ようとしてもすでに遅い。だから今歩み出し、中国市場を開拓し、機先を制したい。リスクはあって当然。ましてや大きいからこそ、チャンスがあるのではないか。」

 このように、繰り返し解釈と説得していく中、ある日やっと会社の経営会議でひとりの徳が高く人望のある年長者が立ち上がり、発言をした。「ここまで断固となるのなら、支持しよう。これまでの人生、あなたの祖父と父から多くの世話と面倒をみてもらったのだから、恩に感じ、彼らに感謝している。だから今回あなたの計画を支持する。しかし、ひとつ条件がある。私自ら中国に行き、会社が足元を固めるまで見届けていたい。」彼のこの簡単な言葉は、当時の泰宏の目に熱い涙を流させた。そして、この簡単な言葉により社内の心をひとつとさせた。そこで、泰宏の率いるもと、生田産機工業の全社員が力を合わせ、騒がしい広大な中国市場に攻撃をしかけた。2001年に生田三機工業は上海営業所を設け、引続き2002年に中国蘇州に全出資会社「生田(蘇州)精密機械有限公司」を設立し、2003年に昆山に「昆山生田易有限公司」(現「州伊易有限公司」)を設立した。同時に、生田産機工業の主力機械製品も中国国内市場で着々と規模を展開していった。生田産機工業が中国市場に入るとき、すべてのプロセスに多くの悲しみと苦しみがあったが、3代目社長生田泰宏の偉大なリーダシップのもとで、全社員の一心団結の努力により、生田産機工業は巨大なエネルギーを備えている中国市場で足元を固めることができた。

 勇敢な人は何事も恐れない。生田三機工業の3代目社長生田泰宏もまた勇敢さだけでなく、知性を備えた勇敢な方である。彼のグローバルな戦略が有するその観点と方針、そして生田家が幾世代にもわたり受け継いでいるすぐに諦めようとしない巨大な職人のDNAを合わせ、泰宏は20年にも満たない時間をかけ、生田産機工業という小さな町工場を近代化した会社に変え、グローバルな戦略方針を有する会社にまで発展し、全世界で会社を発展させたグローバル企業である。


後継者教育:生田家次世代伝承の重要要素

 筆者との談話中、生田産機工業3代目社長生田泰宏は「日本道経会」と「モラロジー研究所」について何度か言及した。この二つの組織はどのようなものか。

 「モラロジー研究所」の英語名称は「The Institute of Moralogy」である。日本の千葉県柏市に位置する公益財団法人である1962年、日本の著名な法学者であり歴史学者である廣池千九郎により提唱され、「道徳科学」が設立された。日本の「道徳教育」の提唱と普及を目的とし、これをもって「日本人魂の再生」を実現しようとした。目下、「モラロジー研究所」は日本各地で計12の地方支部をもち、生田産機工業が加入したのは、京都市上京区に位置する「モラロジー研究所の京都支部」である。「日本道経会」は「モラロジー研究所」の関連機関であり、「モラロジー研究所」とともに道徳教育を推進する以外では、会員企業の経営管理などの各方面で専門指導と支援サービスを提供している。では、生田産機工業はどのようにして、この二つの組織と出会い加入したのか。生田家と生田産機工業から言えば、この二つの組織の存在にどのような意味を持つのか。

 「第二次世界大戦の終戦後、はじめに祖父である生田捨吉が、同じく経営者である友人を介してモラロジー研究所という組織を知ることができた。また話によると、この友人とともに一度モラロジー研究所の公開講座を聞いたという。当時の講座内容とは、自分自身の道徳育成を重んじることを提唱し、身近の人と子供の道徳教育に重視すべき等といった内容であった。聞くところによると、当時祖父がこの話を聞いて感銘を受けたという。当時は第二次世界大戦が終戦したばかりで、アメリカが率いる連合国軍の占領と統治のもと、日本社会には次第に大きな変化が現れ、特に人々の思想と価値観の上で、西洋文化の多大な衝撃を受けた。祖父は典型的な伝統を受け継いだ日本人として、深刻に日本の伝統的な道徳理念の重要性と必要性を擁護し、提唱しなければいけないことを知った。そして、道徳教育と道徳科学をさらに深く学ぶため、モラロジー研究所と日本道経会に加入し、時間さえ合えばモラロジー研究所と日本道経会の公開講座に足を運び、父をも連れて行った。同じく、私の父も最終的にはモラロジー研究所と日本道経会に加入し、私をも連れて公開講座に参加した。そして今になって、私が日本道経会の担当理事となり、京都支部会の副代表として京都支部会の経営講座の運営を行っている。」
 


【写真】新しい工場の建物が竣工したときの生田産機工業社員及び社員家族の集合写真


 生田泰宏社長の心のこもった話からみると、モラロジー研究所と日本道経会は生田家の家業伝承にとりわけ重要な意味をもたらし、生田家の後継者教育に大きな役割を果たしている。まず、モラロジー研究所と日本道経会は基本的に生田家の親子二代がともに参加した社会組織であり、最初は祖父と父の二代がともに参加し、次に父と現社長の二代がともに参加している。実際これは生田家にとって、効果的に二代の経営思想と経営理念を統合する重要な意義となった。もうひとつ、二代の交流と橋渡しに良い促進作用をもたらした。

 第二に、モラロジー研究所と日本道経会は現地の多くの企業が積極的に参加している社会組織であり、会員企業の経営者と後継者が直接的に、あるいは間接的に教育し、監督できる作用をもたらしている。モラロジー研究所と日本道経会は、それ自身に社会教育の働きがあるため、自然的に社会教育の効果がでる。さらに二つの組織内部は、一般部門と青年部門に分かれているため、青年企業家または若い後継者らが互いに比較的に自由に切磋琢磨して、また互いに理解し合いながら経営実践の交流もでき、仲間同士の共同成長を促すこともできる。それと同時に、父の代の企業家らもこの二つの組織に加入し、活動に参与していることで、後継者らへの監督作用が明確にでている。もししっかりやらなければ、先輩経営者が直接指導を下すこともあり、非難によっては曖昧かもしれないが、最後は結局自分の父の顔に「泥を塗る」こととなる。

 もうひとつ、後継者の教育に関して、談話を通してわかったことがある。現3代目社長生田泰宏が中学を卒業し、ふるさとを離れ、さらに大学卒業後アメリカ留学の経歴を加え、常に父のそばにいなかったが、父はいつも日常生活の中で起きた小さなことを通して「事によせて自分の意思を述べる」といった教育を泰宏に行った。たとえば、泰宏は筆者との談話の中で、以前父が彼に一通の手紙を寄こしたことを話された。

 「中学校を卒業後、一人で京都を離れ関東にある千葉県の全寮制の高校に入学した。入学して間もない頃、父が私に入学祝いで買ってくれた腕時計を失くしてしまった。当時はとても腹が立ち、同じ寮の人が私の腕時計を盗んだと疑い、このことを両親と先生に伝えた。それから、父から一通の手紙をいただいた。手紙の中で父は、「腕時計を失くしたのは、まずは自分の過失によるものである。学校の宿舎で集団生活を送るのだから、自分の物を管理することは最も基本的な義務であることに対し、おまえはそれをしていない。もし本当に誰かがおまえの腕時計を盗んだとしても、それはおまえが自分の物を管理していないから、おまえがその人に罪をつくらせたことになる。もし自分の物をきちんと管理できたならば、彼の人生にこのような汚点を残さなかったであろう。だから他人を攻める前に、まず自己反省をしなければならない。もし自分がすべて正しく、他人がすべて悪いと思うのならば、この人は必ず心の狭い人になってしまう


天命に従い人事を尽くす:生田家代々伝わる企業精神

生田産機工業の社長室の壁に飾っている言葉がある。「天命に従い人事を尽くす」。わが国の清の時代、著名な小説家李汝珍の著作である『』に、「尽人事,听天命」という言葉がある。この中の「人事」とは人情の道理を指し、「天命」とは自然の法則を指す。全体的な意味としては「事をはかるは人にあるも、事の成否は天にあり」とし、森羅万象には可変要素が多く、そのため予測し難く、人々は全身全力で自分のやるべきことを成し遂げても、成功できるかどうかは天命に従わなければならない。ところがこの言葉が生田産機工業にわたると、言葉の前後が逆になった。そこにどのような意味があるのだろうか。

 「その通りである。以前にもこの言葉がなぜ逆になっているのかと問われたことがある。なぜ「人事を尽くし、天命を従う」のではなく、「天命に従い人事を尽くす」であるのか。私はこの言葉をこのように理解している。まず「天命に従い」について、私は森羅万象には天が存在していると理解し、私たち一人ひとりにそれぞれ個性があり、完全に一致する同一の人物はないから、天が私たち一人ひとりに与えた使命も異なる。しかし人生とは、ずっと前から知らず知らずの間、天の変わることのない自然の法則に基づき、それぞれ異なる使命を授かっている。これが天命である。そして「人事を尽くす」とは、先ほど述べたように天が私たちに、知らず知らずの間それぞれ使命を授けたのだから、わたしたちもそれぞれ、天の定めるところに従わなければならないし、自分だけに与えた使命を全力でやり尽くさなければならない。」

 ここまで聞くと、筆者は「天命に従い人事を尽くす」という言葉が「尽人事,听天命」という言葉に比べ、少し異なる積極性の要素を感じることができた。

 「「天命に従い人事を尽くす」、この掛け軸は祖父がこの会社の社長となった代からあった。祖父はこの言葉が非常に好きで、いつも自分の部屋に飾っていた。それから父が2代目社長となると、同じくこの掛け軸の言葉を重視し、この掛け軸が私の代まで伝わった私個人から言えば、父の息子として、長男として生田家に生まれたのだから、私の天命も私が生まれた日から決まっていたと感じている。そして現在、生田産機工業の3代目社長として、もうすぐ100周年を迎える生田産機工業に対し責任を果たさなければいけない。企業の経営を安定させ、従業員一人ひとりをよく考慮し、生田産機工業を順調に4代目社長に手渡し、生田産機工業の次世代に伝承させることが、天が私に与えた天命である。天命がどうであれ、必ず最大の努力を尽くして、天が私に与えた天命を最善にやり尽くさなければならない。これが私の「天命に従い、人事を尽くす」である。」

 「天命に従い人事を尽くす」の文字は、金紙に黒く書かれ、金色の額ぶちの中に収められていた。午後の日光がガラス張りの窓を透き通って部屋を照らし、金色の額ぶちまできらきらと光らせた。


訪問あとかき

 2016628日は、筆者が生田産機工業の3代目社長生田泰宏氏との第3回目の再会である。生田産機企業は、2000年までは無名の中小企業であったが、3代目社長の生田泰宏の指導のもと、戦略的経営方針を取り入れ、新製品の開発のみならずビジネスのモデルチェンにまで成功させ、グローバル化が激しく進む今日、全世界に戦略的な分布を成し遂げた。「天命に従い人事を尽くす」という創業精神の指導のもと、高度な戦略姿勢と何事も恐れない勇敢な試みによって、そして生田産機工業の一心不乱な職人らによって、そして豊富でハイテックな技術によって、私たちは「IKUTA」のブランドが世界市場でさらなるご活躍を成し遂げることを信じている。


作者:少杰博士
日本立命大学経営学部助教授,博士。日本同志社大学技術・企業・国際競争力研究センター共同研究;北京大学政府管理学院客員研究員,米ミシガン大学訪問学者。主に企業の組織管理、業績管理、人的資源の管理と労働関係及び家族企業の引継ぎと日本の100年企業の受け継ぎ課題の研究に携わっている。

弊社生田代表の単独インタビュー(中文雑誌リンク):




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日本の経営手法を学びたい中国の経営者向けの研修事業、経営者視察団の受け入れ等を行っています。また大学生のグローバルリーダーシップの育成事業、日本企業の中国進出のサポート等も行います

従業員数 :
企業全体:4人 うち就業場所:4人 うち女性:1人 うちパート:0人

会社所在地 :
〒612-0029 京都市伏見区深草西浦町6-79-5 EDAアドバンスビル2F

KYOTO大学生グローバルベンチャーコンテスト2019 実施要項

(詳細:https://www.ie.education/)
大学生グローバルベンチャーコンテスト実行委員会 委員長:生田 泰宏 事務局:生田グローバル株式会社 株式会社GES 京都事務所
1.コンテスト概要・目的「KYOTO大学生グローバルベンチャーコンテスト2019」は大学生グローバルベンチャーコンテスト実行委員会が主催し、多国籍の大学生が参加するグローバルベンチャーコンテストです。2018年5月に京都にて第1回開催以降、今回で第3回目になります。(*第2回は兵庫県、大学コンソーシアムひょうご神戸と共催し実施しました)本コンテストは2019年5月16〜20日に京都で開催します。本委員会は海外の大学の大学生を日本へ招待し、ここ京都で日本人の大学生と一緒にコンテストを行います。

本ベンチャーコンテストは大学生の成長、キャリア形成に対して大きな意義があります。また、海外の大学生は京都でのコンテストに参加することによって、京都の国際化や国際交流にも貢献できると確信しています。具体的には、優秀な留学生が京都への大学院留学、大学間の国際共同研究に繋がる確率が高くなります。また「KYOTO大学生グローバルベンチャーコンテスト2019」は学生たちにベンチャービジネスの舞台を提供するだけではなく、発表した優秀案に投資家やパートナーを紹介するなどのサポートも行います。(*第1回目の参加者は1億円の投資を受けた実績有り)京都での起業促進、雇用の新規創出。さらに、グローバルなオープンイノベーション促進、高度人材としての定住外国人ビジネス関係者との協働による新たな多文化共生型のイノベーション・コミュニティ創出などの社会経済的な効果が生まれやすくなります。

2.主催

大学生グローバルベンチャーコンテスト実行委員会
(*構成:生田グローバル株式会社、株式会社GES、(特非)KANU NIPPON)

共催:京都府、京都市、京都商工会議所、(公財)京都府国際センター、(独)JETRO京都、(独)中小企業基盤整備機構 近畿本部、(公財)京都高度技術研究所、(公財)大学コンソーシアム京都、京都リサーチパーク(株)、京大オリジナル(株)

後援:経済産業省 近畿経済産業局、(公社)関西経済連合会、(一財)日中経済協会、京都産学公連携機構、京都経営者協会、(一社)京都経済同友会、(公社)京都工業会、京都機械…